田中 純子 「同朋衆及び遁世者の史的研究―室町幕府同朋衆形成史論―」                      

 同朋衆研究は、長い間室町文化の担い手としての評価が定着している同朋衆像を背負ってきたため、この呪縛から抜け出せず、同朋衆の成立時期・職掌さらに幕府内の位置付け等同朋衆の実態については殆ど研究されてこなかった。室町幕府には 義満期より義輝・ 義昭期まで途切れることなく将軍に近侍する阿弥号者が存在するが、先行研究では義政期の同朋衆を典型としてその研究結果を、室町時代全てに当てはめて考えようとするものであったため、政治・社会状況の変化とそれに伴う幕府の方針や力関係の変化を加味しないで、一律に室町時代の同朋衆として研究・評価されてきたきらいがある。
 そこで、同朋衆に捧げられた評価を一度洗い流し、改めて同朋衆の現実の姿を史料に即して検討し、同朋衆の実像について考えてみることとした。
 序論では、先行研究について(1)時衆研究(2)同朋衆論(3)同朋衆の職掌研究(4)同朋衆をめぐる諸問題(6)遁世者・阿弥号者・芸能者についての研究の問題の所在、と分類して、それぞれ問題の所在を明らかにし、本稿の研究課題を提示した。
 第1編では、南北朝期に全国に展開した時衆について、特に日本海海上流通網の拠点津・泊・湊を多数抱える北陸地方の中心的時衆寺院として活動した長崎称念寺に焦点を当てて、時衆の動きを追いながら時衆教団の興隆から衰退までを展望した。従来、時衆研究では陣僧・芸能者・卑賤民が重要な鍵であったが、既成の史料を新しい視点で捉え直すと、流通・貨幣経済・情報という全く別のキー・ワードが現れる。鎌倉末期から南北朝期にかけて貨幣経済の進展と重なるように発展し、特に貨幣経済の具現者とも言うべき、流通業に携わる商人や荘園の下級管理者をごく初期から時衆に取り込んだ時衆教団は、まさにこの時代のさきがけ・申し子であったと言えるだろう。
 第2編では、南北朝期の阿弥号者が「将軍近侍の阿弥号者」となり、義満期に義満側近の立場を獲得していく過程を解明してみようと考え、その解明の手段として義満の「将軍近侍の阿弥号者」といわれている「古山珠阿弥陀仏」に焦点を絞り、「古山珠阿弥陀仏」を通して「将軍近侍の阿弥号者」の実体を明らかにしていこうと考えた。
その結果、多様な顔を持つ古山珠阿の姿が明らかになった。珠阿は時衆であり、文芸者であると同時に、珠阿の生活の拠点は高野山にあり、終始軸足を高野山に置いて活動した。  さらに義満と将軍近侍の阿弥号者の関係は、個別的な関係に基づくものであった。これは幕府の職制成立後の同朋衆とはかなりかけ離れたものであり、従来考えられていた将軍近侍の阿弥号者の姿とは大きく相違するものとなった。
 第3編では、義持・義教期の将軍近侍の阿弥号者についてその実態について検討した。
 義満期の古山珠阿弥陀仏に代表される将軍近侍の阿弥号者の、職制としての同朋衆成立過程を考察した。義持・義教期の将軍近侍の阿弥号者については、殆どこれまで研究されてこなかったが、義持・義教期は近年政治体制等の研究が非常に進んだ時期であるので、こうした研究成果を踏まえながら同朋衆成立過程について考えた。
 第4編では、これまで同朋衆研究の分野で唯一研究されてきた職掌を再検討して、将軍近侍の阿弥号者の幕府内における実態を明らかにした。一方、確かに制度史上、幕府内の事務官僚である同朋衆の仲には、能阿・芸阿・相阿といったこれまで室町文化特に東山文化なるものを支え担ってきたとされた人々が存在するのも事実である。この3人については第5編で考察した。
 第5編では、南北朝期以来の遁世・遁世者について検討をした。阿弥号、遁世、芸能者、この三者の関係について考察して、「遁世者」という語の実態について考えてみた。しかし、この三者については、平安・鎌倉期からの仏教界の中の動向とも関連した大きな命題であり、今後も継続していかなければならない大きな課題であると思っている。遁世者・阿弥号者を検討することで、逆に同朋衆自体もより鮮明になり、遁世者・阿弥号者の室町文化上果たした役割及び中世後期室町期の文化の特徴にも言及していけるものと思う。
最後に総論において、全体のまとめを行い、今後の課題を確認した。

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