藤田 和敏 「近世郷村結合の研究」                           

 本稿は、水利・入会といった農業生産条件を紐帯とした郷村結合の近世的展開を分析することによって、従来の近世村落史・地域社会論において指摘されてきた、庄屋層と小農層との階層間対立の存在と、両者が一体となった機関・団体としての村が発揮した自治性という近世村落の矛盾した特質を、整合的に理解することを目的とするものである。
 序章では、近世村落史・地域社会論についての研究史整理を行い、本稿の位置づけについて述べた。九〇年代後半以降の地域社会論は、吉田伸之が提唱した社会的権力論に大きな影響を受けつつ展開してきた。社会的権力論とは、村役人=村方地主である社会的権力と小農共同体との階層間対立を中心に地域社会を構造的に捉えることを目的とする方法論であり、藪田貫の国訴論に見られるような、水本邦彦の村惣中論を前提に八〇年代以降進展してきた自治的な村落の連合体による地域運営を重視する地域社会論の批判を意図している。それに対して筆者は、七〇年代以前に行われてきた階層構造分析の手法を重視する社会的権力論は、八〇年代以降の地域社会論の成果を逆に捨象してしまう方法論であると考え、階層構造論と村落自治論の方法を融合して地域社会を捉えるために、郷の内部構造を分析することの必要性を主張した。近世の郷は、土豪層による惣郷レベルの支配の下に小農層と土豪層の結合体である惣村が存在したという中世後期の村落構造が、近世的な展開を遂げることによって形成されたものである。自治性を持つ近世村落は惣村を前身とする村惣中が二重構成になっていた中世後期の村落構造を乗り越えたことによって確立したとする水本が示した理論的な枠組みを前提に、郷の近世的展開について、近世前期段階の土豪的な庄屋層の支配の下に村が存在するという構造から、如何なる過程で藪田が描き出した近世後期段階の自律的な運営を行う村連合へと変化したかという視点で考察することで、両者の方法論を組み合わせて理解する可能性が開けるのではないか、ということを提起した。
 第一章では、一七世紀に編纂された摂津国絵図・郷帳を素材に、国絵図・郷帳における村記載の段階的変化について分析した。第一節では、集落としての村を視覚的に描いた絵画史料である国絵図と、村高が設定された行政村が記載されている郷帳を比較することにより、一七世紀初期の編纂である慶長・元和の国絵図・郷帳と、一七世紀末期に作成された元禄の国絵図・郷帳とでは、行政村の設定に段階的な変化が見られることを明らかにした。すなわち、近世初期段階では国絵図上で朱線で結ばれた集落群=郷が郷帳上で行政村として表記されるが、元禄国絵図・郷帳では集落が行政村設定の対象となったのである。しかし、元禄国絵図上では(1)集落に郷の名称を肩書きしたり、(2)郷帳上に表記されない行政村に付属する村=無高村を描くことによって、慶長国絵図段階での郷的な集落の繋がりを表現する記載が数多く見られた。第二節では、豊嶋郡原田郷で発生した元禄国絵図・郷帳編纂をめぐる争論を事例に、以上のような国絵図・郷帳の村記載の意味を考察した。郷内の在地領主的な集落間ヒエラルヒーが解体過程にあった原田郷では、本郷四ヶ村と枝郷七ヶ村が主導権争いを繰り広げており、国絵図・郷帳上に自らの立場が有利になる記載をするよう、絵図元(国絵図・郷帳編纂担当者、当該地域は高槻藩)に両者が働きかける動きを見せた。郷内部において集落間ヒエラルヒーが解体し村が自立していく過程を表現するために国絵図・郷帳上の村記載には段階的な差異が存在していたのであり、原田郷に見られるような在地の側の働きかけによって、国絵図上の郷的な繋がりを(1)・(2)のどちらで表現するかという絵図元の判断は変化したのである。
 第二章では、摂津国島下郡粟生村を事例に、郷の内部構造の展開について検討した。第一節・第二節では、近世前期における粟生村の村落構造について考察した。粟生村は、近世初頭に七集落を含んだ一五〇〇石余の大村として村切されている。近世前期段階では中世以来の土豪的な庄屋である岡家が村落運営の主導権を握っていたが、岡家による粟生村支配は、突出した経済力を持つ庄屋として村内の惣百姓中に相対する階層間の支配と、七集落のうちの「本郷」に居住する庄屋として各集落の百姓中に対して行う集落間の支配という二重の性格を持つものであった。延宝・天和期には惣百姓中との階層間の対立が高まり村方騒動が発生するが、同時期に村内で集落が自立する動きを見せており、岡家による二重の支配構造は解体の危機に直面した。第三節では、近世中期における岡家の粟生村支配と高槻藩政との関係について論じた。岡家は前期村方騒動を乗り越え、近世中期以降も支配構造を維持し続けたが、それは領主である高槻藩が岡家の権力を取り込む形での在地支配を展開したことが要因になっていた。一八世紀末に至り、藩財政の窮乏を転嫁された粟生村では村財政が悪化し、組頭層の反発が強まった結果、高槻藩は岡家を闕所に処して、岡家を中心とした支配構造を消滅させる。その後、高槻藩は財政建て直しのための入箇改制度を導入し、組頭層を入箇惣代に任命することで在地支配に取り込む方針に政策を転換させた。第四節では、近世後期における村落運営の展開について考察した。岡家没落後の粟生村は、高槻藩の政策転換に対応し、入箇惣代であった池上政五郎と年寄であった植田治兵衛が庄屋に就任する。両者の庄屋就任によって階層間の支配構造が乗り越えられた結果、集落間の支配構造も解体し、岡家が握っていた村落運営に関わる権限が七集落へ移譲された。村落運営において庄屋と七集落は対等な関係を取り結ぶことになり、七集落は自律的な地域運営の担い手となったのである。
 第三章では、近江国甲賀郡森尻村の矢川大明神を事例に、近世の郷鎮守における神宮寺の歴史的展開を本末関係の形成過程との関連から追究した。第一節では、近世前期における矢川大明神の存在形態について論じた。矢川大明神は正保期には二二ヶ村の氏子村々を抱えていたが、承応元年(一六五二)の争論によって氏子が七ヶ村に分裂縮小する。また、中世段階に別当として社務を執行したとする由緒をもつ矢川寺は、戦国末期の地域社会構造の転換によって中世的な存立基盤を失うが、住持が氏子村々の天台宗寺院や鎮守で実施される祭祀を司ることで、新たに氏子七ヶ村との近世的な関係を形作った。第二節では、近世中期に氏子村々で発生したオコナイ争論を材料に、矢川寺と氏子村々との関係について考察した。氏子村々の天台宗寺院で実施されるオコナイは、村落内の社会的身分を確認する行事であり、矢川寺は中本寺としてオコナイ争論に介入することにより、氏子村々の村落運営に影響力を及ぼしていた。第三節では、矢川寺の本寺である延暦寺東塔北谷の僧坊惣持坊について検討した。惣持坊は天台密教の一流派穴太流の法流を伝える灌室であり、矢川寺住持は惣持坊から伝法灌頂を受けることによって法流関係を結んでいた。第四節では元禄期における惣持坊と矢川寺の本末関係の形成過程について論じた。惣持坊は法流関係を梃子に、延暦寺末であるとの認識を持っていた矢川寺を自らの末寺に組み込むとともに、氏子村々の天台宗寺院を直末寺とすることで矢川寺の中本寺としての立場を否定しようとした。矢川寺にとっては、天台宗寺院を媒介とした氏子村々との関係は自らの主導の下に矢川大明神を維持するために必要不可欠のものであり、惣持坊の末寺取り込みの動きに抵抗した。
 第四章では、近江国甲賀郡北脇村の若宮八幡宮を事例に、近世前・中期における祭祀組織の展開について分析した。若宮八幡宮の氏子を構成する一〇ヶ村は、柏木六ヶ村・山村三ヶ村・下山村という農業生産条件を別にした三つのグループに分かれつつも、若宮八幡宮を鎮守として郷の結合を維持し続けた。当該地域の構造において中心的な存在であった若宮八幡宮の運営は、近世中期までは主として神職の柏木家が担っていた。柏木家は公卿である飛鳥井家を家祖とする由緒を誇示する特権的な神職であり、氏子村々は柏木家との協調的な関係を保ちながら運営に加わっていた。しかし、一八世紀末に財政窮乏をきっかけとして柏木家は神社運営の実権を失い、氏子村々が運営を担う体制へと変化した。
 終章では、本稿の論点について整理した。郷の近世的展開は、一七世紀段階での小農層の成長による階層間の矛盾激化→土豪的庄屋による支配の否定→求心的な集落間構造の解体と村の自立という過程をたどるのが一般的であったこと、政治権力による編成の論理も以上のような郷の展開に直截な影響を受けて段階的に変化したことを指摘した。

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