白川 哲夫 「〈戦死者慰霊〉の形成史と近代日本」

 本稿は近代日本における「戦没者慰霊」の問題について、なぜ現在のような形で問題が存在しているのか、本当の「問題」がどこにあるのか、を明らかにしようとするものである。従来の研究状況に対して、本稿では三つの問いを立て、その克服を試みている。第一は「戦没者慰霊」が「靖国の論理」で枠組みつけられてしまう傾向への疑問である。明治以来の一貫した「戦没者慰霊」に対する姿勢が戦争を通じて発展していく、という歴史の描き方が果たして正しいか、という問いである。第二の問いは、近年多様な「戦没者慰霊」のあり方が明らかになる中で、「靖国と異なる」ことが一つの論点になっているが、「靖国と異なる」からといって問題がないわけではない。「靖国と異なる」ことがまた抱えてしまう問題について考えてみたい。第三の問いは、軍隊・戦争と日本社会のかかわりというっ観点では、「戦没者慰霊」の問題はどのように位置づけることができるのか、ということである。これらの問いに対する方法として近代日本における様々な「戦没者慰霊」の形態を事例として取り上げ、その歴史的段階を明らかにし、併せてそれぞれを関連づけることを試みた。
 第一章では、招魂社について京都の事例を中心に分析した。まずその起源や制度について概括した上で、招魂社で行われた行事や施設の時期的変遷を追うとともに、京都における軍隊の招魂祭と対比させ、その関係がどう変化していくかを探った。その結果、従来靖国神社の地方版としての評価が、通時的に成り立つものではないことを明らかにした。すなわち、招魂社での祭祀は明治維新を記念するための「殉難者」を対象とした側面があり、近代軍隊における「戦没者」とは必ずしも結び付かなかった、という点である。それは国家にも招魂社に関する明確な政策はなく、その施設自体が、「戦没者慰霊」を担う施設としては宗教的な矛盾や、民衆への定着度の不足といった問題を抱えていたからである。
 それが第一次大戦後の欧米の状況をうけて、統一的な「戦没者慰霊」の確立を求める議論が起こり、「戦没者」を祀る招魂祭を恒久的な施設で行うという発想から、招魂社との統合が行われ、「護国神社」に結実した。この一連の流れから、招魂社から護国神社への転換というのは単なる施設の拡大や発展にとどまらず、「戦没者慰霊」の枠組み自体の構造的な転換を示している、という結論を出した。
 第二章では、軍隊や地域で行われた招魂祭と、地域における戦死者葬儀を取り上げ、互いに比較しながらその形態の変遷と関係性について論じた。従来の研究では事例自体が充分に分析されていなかった「戦没者慰霊」行事である。その結果明らかにしたことは以下の通りである。すなわち、戦死者を集団として祭祀する招魂祭と、個人として弔う戦死者葬儀は、それぞれが平時と戦時の「戦没者慰霊」を担った。招魂祭は軍のお祭り、あるおいは地域の年中行事として民衆に受け入れられ、多くの人々が集まる行事であった。戦死者葬儀は村を挙げて行われるものであり、遺族よりも村の枠組みが優先された。いずれも地域が一体となった行事であり、時代が下るにつれて公的な度合いは強まった。招魂祭は娯楽性を薄めて厳粛な儀式となり、かつ民衆を動員する場となっていった。戦死者葬儀は画一化・システム化が進んでいった。また二つの行事は神道と仏教の果たす役割の違いを反映していた。招魂祭は主として死者への顕彰と称賛であり、後者は死者への哀悼と弔いであったが、その役割は自覚的に選び取ったというよりは、通時代的に互いの領域を奪い合おうとする紛争が起こり、その結果として定まったものであった。
 第三章・第四章はセットで考えられるべき部分だが、仏教界が取り組んだ「戦死者追弔」行事を日清・日露戦争期からアジア・太平洋戦争期までを分析し、「仏教と戦争」の問題を再検討した。第三章では、これまでの研究ではあまりふれられていない日清・日露戦争期、宗派としては浄土宗を主たる対象とし、仏教界の基本的な戦争観と、それを一般に伝える手段として戦死者追弔行事が有力であったことを明らかにした。日清戦争期には、戦死者追弔行事は他の理由による死者と同様に弔われたり、寺院の行事と一括で催されたりしていたが、日露戦争期にはある程度独立した行事として扱われるようになった。戦死者追弔の論理は、「国に殉じた」という価値観を肯定する限りにおいて、敵側の死者をたたえるものでもあり、仏教的には「怨親平等」と説明された。これは靖国神社とは違った「戦没者慰霊」のあり方であった。こうしたあり方は、すでに日清戦争期には各宗派において熱心に取り組まれており、特に浄土宗では忠魂堂を全国に建設する、という形で現れてくる。一連の仏教界の取り組みは、靖国神社を中心とする「戦没者慰霊」より以前に全国的に広がりを見せていたものであり、靖国に従属するものとして考えるのは適切ではない、という結論を導き出している。
第四章では、日露戦後からアジア・太平洋戦争期までの戦死者追弔行事の変容を明らかにした。日露戦後、招魂祭の定着によって、仏教界は「戦没者慰霊」における一定の地位を確保する。一方で、浄土宗が積極的に取り組んだ忠魂堂のような恒久的な施設は、結果としては公共の慰霊施設としての機能を果たすことはできずに終った。第一次世界大戦期は、日露戦争期に引続き「怨親平等」に基いて敵味方の死者を弔うあり方が続いたほか、世界平和を求める意識も出てくるようになった。しかし満州事変の勃発以降は、事変を「記念」する形での戦死者追弔が行われ、日清戦争以来の戦死者追弔を通じた戦争協力のあり方が引継がれており、それは日中戦争期に至ってより広範に展開した。
 仏教界の「戦没者慰霊」に対する基本的な姿勢は、靖国神社に対する自らの位置をどう考えるか、という課題に基いていた。靖国神社は国家が死者に報いるための祭祀であって「宗教」ではないとし、実際に遺族を慰める役割を持つのは「宗教」としての仏教である、と主張した。こうした主張は、日中戦争期に浮上した戦死者公葬問題における神道側との論争の中で明確に示されたが、これはむしろ「神道非宗教」の立場であった国家に適合的な論理であった。
 第五章は補論的な位置づけをしているが、戦後の「戦没者慰霊」について護国神社を軸に論じることを試み、戦後における自らの位置の模索について明らかにした。敗戦によって靖国・護国神社体制は大きな危機に直面し、特に護国神社は施設そのものも戦災を蒙ったものが多かった。直接的にはGHQによる神道指令を受け、生き残りを図る方策として「戦没者慰霊」をどのような根拠で行うか、が検討され、その中では「公共」と「福祉」がキーワードとなった。「公共」とは戦争に限らず国家公共のために尽した人々をも祭祀の対象にすることであり、「福祉」とは広く一般に親しまれる公共的な施設を設置・運営していくことであった。これらはGHQによる占領解除後も一定程度護国神社が目指す方向性として模索され、単なる戦後の生き残り策としてのみ提示されたものではなかった。
 しかし戦後体制の中では「公共性」を神社という形態のままで主張することが難しい、ということが早くから認識され、それは靖国神社国家護持運動の結果を予測するものでもあった。国家公共のために尽した人々を祭祀する、という方向性も、護国神社全体に広がることはなく、また「福祉」は遺族への福祉にとどまり、トータルとしては護国神社の戦後の模索は成功しなかったのである。そして靖国神社との連動性や、皇室との関わりを強めることによって自らを規定し、慰霊より「顕彰」へ、という形での現在の「戦没者慰霊」を成立させた、という流れである。
 以上の各章の分析から明らかになった結論を整理すれば以下の三点となる。第一点は、日本の「戦没者慰霊」は招魂社・招魂祭から護国神社へと引継がれる、戦死者「顕彰」を中心とした国家祭祀の流れと、「顕彰」とともに「哀悼」の念も表明でき、かつ遺族の信仰に直接応える面を受け持った仏教的な流れの二つに大別できる、ということである。第二点は、「戦没者慰霊」の時期的な変化である。明治維新「顕彰」のために始まった「戦没者慰霊」は、日清・日露戦争を経る中で戦争協力の一環として取り組まれるとともに、民衆と軍との距離を近づける大規模な行事となった。しかし大正期には社会的関心の低下がみられ、その中で娯楽色の低下と行事の厳粛化、地域的な枠組みの重視が進んで「戦没者慰霊」の質的な転換が進んでいく。そして昭和に入ってからの統一的かつ画一的な「戦没者慰霊」のあり方の確立は、靖国・護国神社体制に象徴されている。第三点は日本の「戦没者慰霊」の「本当」の問題点である。それは様々な慰霊形態がどれも社会的合意という意味での「公共性」を得られなかった、ということであり、それは近代日本が「戦没者慰霊」に関してとった政策と、近代以来の「宗教」をめぐる矛盾を残していることに起因している。

戻る