田中 希生 「精神の歴史―近代日本における言葉と出来事」

 言語活動はいかにして出来事に生成するのか。言葉は、いかにして、出来事であったり、あるいはそうでなかったりする資格を得るのか。言葉と出来事が、古来変わらぬ関係を維持し続けてきたなどということは、おそらくあるまい。そこで本稿は次のような主題を設けた。すなわち、近代日本のひとびとの言葉と出来事をめぐる格闘の軌跡を、あきらかにすることである。そのことは、必然的に、本稿を、精神をめぐる歴史の考察に近づけもした。したがって、表題は「精神の歴史」とした。
 本稿は、二部構成をとり、第一部では主に明治期をとりあげ、近代とも前近代とも異なる、言葉と出来事とを差異として直接結びつけるような、独自の言語論を分析し、それをできるかぎり明確にした(本稿では、それを、蘭学的言語論または《文学》的言語論と呼んでいる)。また、第二部では、主として二十世紀初頭から「大東亜戦争」までをあつかい、第一部でみた特異な言語論と、それに遅れて発生したリプレゼンテーション概念に依拠した認識論的な言語論との相克として、この時期を把握した。
 その際に本稿が注意したのは、ある学問領域において、時代を通じて、あるいは時代を越えて共有された一貫性なるものを、前提しないようにすることである。ここでいう学問の一貫性とは、たとえば言語なら言語学といったカテゴリーが、歴史的にいってあるひとつの目的に沿った形で進歩してきたというような、そうした歴史主義のことである。同じ近代といっても、十九世紀の博言学と二十世紀の記号論的な言語学とのあいだには、一貫した目的を見いだすのはむずかしい(前者には帝国的な欲望にもとづく再編があり、後者にはナショナルなそれにもとづく再編がある)。解剖学もそうである。明治の文明論を思想的に下支えしていた解剖学の有効性は、日本人種の特徴を示そうとする一九三〇年代の解剖学の有効性とは、方向がまるで異なっている。それを学問の進歩として語ることは、学問史的な視座として有効だとしても、筆者の意図することとはかけ離れてしまう。そのときどきの社会の欲望が形成する学問の問題構成は、けっして、現在を頂点とする学問の進歩によって語られるような、そうした単一の本質の展開ではないはずである。
 学問を構成する社会的な布置そのものの変換は、言葉と出来事とのかかわりを考察するという、本稿の主題に大きく関わっている。とはいえ、本稿は言語論的転回≠ノは与しない。「テクストの外部はない」というような、あるいは構造主義言語学を端緒とするような、言語論的転回≠ニ呼ばれる人文科学上の特異な視座は、言葉を、事物とは切り離された、任意の要素―シニフィアンとシニフィエといった要素―の諸関係の体系的総体として把握しようとする。存在に対して、言葉は、認識の側にあり、つねに再現前化の装置として理解されることになる。つまり、言葉は、事物の表面に塗り付けられ、むしろ事物を隠蔽してしまうような、一種のリプレゼンテーション、ということになるわけである。こうした言語学上の考察は、あらゆる言語表象を、事物の側からではなく、事物を認識する側にひそむ権力から語る視座を可能にする。かくして新聞や教科書、その他政府の言説、あるいは小説や演劇といった文化的な言説にいたるまで、ありとあらゆる言語表象は、権力に、とりわけ国民国家に結びつけられて語られるようになった。もちろん、こうした考察のすべてが間違っているというのではないし、また国民国家を、リプレゼンテーションの産物と考えるかぎりで、つねにこの視座は正当性を保つ。だが、こうした考察は、結局のところ、言語がすべてリプレゼンテーションである場合にのみ成立するのであって、どう考えても、リプレゼンテーションがいかに形成されるかを説明するものではない。逆にいえば、構造主義言語学や国民国家論は、言語をすべてリプレゼンテーションだとみなす前提なしには成立しないのである。
 はじめに本稿が注目したのは、蘭学である。江戸末期の思想といえば、おおむね国学や儒学に注目が集まり、蘭学は、古来ある日本の思想の受容形態のひとつとして、また日本の近代化の過程で生じた一エピソードとして、いくらか傍流的にあつかわれるのがつねである。だが、現実には、明治初頭にもっとも機能していたのは蘭学(洋学)であり、もっと本質的な部分で、その位置づけを再考する必要があると考えられた。そこで、蘭学が、一種、オリエンタリズムを逆転させたオクシデンタリズムとして、言語論的にきわめて奇妙な思考を形成していた可能性を、本稿は指摘した。翻訳と解剖とを同時に行なったことにより、言葉の位置が、それまでの儒学的な言語論とは微妙に変化したのである。というのも、翻訳にせよ、解剖にせよ、それらはいずれもみえない意味や精神を、日本語や神経といった形で、具体的な表象として把握させる学だったからである。こうした言語論的な変化を受けて展開されたのが、明治期の思想だったと考える。その事例として本稿があげたのは、神経学、博言学、スタチスチク、そして文学である。
 鹿野政直は、日本の近代思想史において、文学がはたした役割の大きさを指摘しているが、同時に、歴史学の分野では、あまりとりあげられてこなかったことも指摘している(文化史的な視点は除く)。先に提示した視座からみれば、文学は、それまで、おもに戦後に、振り返って「近代文学」として規定されてきたものとは大きく様変わりする可能性のあることを指摘した。とくにその場合に注目されたのは、言文一致運動である。言文一致運動は、今日では国民国家の形成に結び付けられ、不可能性において評価する指摘が数多いが、本稿は、それには反対する。とくに言文一致運動の特徴は、テクスト・クリティーク的な視座には本質的に反するものであることを主張したい。というのも、言文一致運動は、なにより、音声的な運動だからである(筆者はジャック・デリダの音声中心主義批判には懐疑的である)。とくに文学者で事例としてあげたのは、坪内逍遥、二葉亭四迷などである。
 さらに、二〇世紀初頭にさかんになった田山花袋や島崎藤村らの自然主義と幸徳秋水らのアナーキズムをとりあげ、とくに秋水の「直接行動」の概念が、こうした言語論の延長上で展開された奇妙なものであったことを指摘し、国家による社会主義者の過度のフレームアップという、それまでの見方とは異なる視座を提示した。
 第二部では、リプレゼンテーション概念に依拠した認識論的言語論をあつかう。これは、国民国家との結節点を有している思想だが、とくにこの思想が展開されたのは大正期以降である。ここで本稿があげた事例は、夏目漱石、桑木厳翼、左右田喜一郎、そして吉野作造である。とくに、漱石の「心」や、文化主義的に位置づけられた左右田の「貨幣」、そして吉野の「国家精神」は、それまでの《文学》的言語論が使用していた《精神》とは様変わりしており、わたしたちにも馴染み深いものである。言葉は、事物を直接示しているのではなく、そのリプレゼンテーションであり、言葉の使用者を「主体」としてとりあげる、近代的な思考である。こうしたリプレゼンテーションの形成において、もっとも有効だったのは、「暗示」である。それまでの言語論が、むしろ、解剖や告白といった所作によって、内面(精神)を露骨に明示することを重視していたのだとすれば、もちろん、「暗示」は異なる。目に見えないにもかかわらずひとびとが構成する仮象≠ノ、文化的かつナショナルな要素を認め、それらを重要視したのである。暗示された仮象は、つねに、それを生み出す「主体」とのあいだに、独自な関係を築く。それが因果律‐歴史である。その根拠や因果律をめぐる、なぜか≠ニいう問い―すなわち歴史が、ひとびとの問いの中心となる。
 だが、すぐさま、そうした認識論的言語論に依拠した思潮がひとびとの思考を席巻したわけではなく、大正期には、十九世紀の《文学》的言語論をひきつぐさまざまな思潮もみられた。『白樺』派の文学運動や、大杉栄のアナーキズムがそれである。彼らは、マルクス主義的な「社会」とも、大正デモクラットのいう「社会」とも距離をとり、独自の《社交性》の概念に依拠した、第三の社会を構想していた。個人主義の徹底した追求の先に見出される「世界」という視座、こうした思想の可能性は、いまでは黙殺されているが、きわめて重要であると考えられた。
 昭和期にみられるのは、認識論的言語論による、十九世紀以来の《文学》的言語論の包摂である。一九三〇年代の精神史的試みは、その先端に位置づけられる。認識論の枠内で、言語と出来事との一致を夢想するような、そうした知的な布置が用意されたのであり、それこそ、まさにナショナルなものだと考えられた。こうしたナショナルな視座は、一九四〇年代には、さらに「世界史」と結びつき、大東亜共栄圏構想へと展開されていった。
 このような考察を経て、本稿は、言葉は出来事である、という言語論が、たしかに十九世紀にも二十世紀にも認められたことを、指摘して、これを結論とした。

 なお、本稿は、「歴史とスタイル―文学の誕生、あるいは消滅のコギト」(『新潮』新人賞評論部門次点)、「自然主義から新カント主義へ―近代日本の認識論的転回と国民国家形成」(『洛北史学』)、「吉野作造と大杉栄―大正期における国民国家の思想とアナーキズム」(『社会思想史学会大会報告集』)、「一九三〇年代の精神―日本の国体と精神史について」(『新しい歴史学のために』)をもとに構成されたものである。

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