目黒 杏子 「漢代国家祭祀の研究―郊祀の構造を中心に―」
                
 本研究は、前漢王朝と後漢王朝において執行された国家祭祀の構造を分析することにより、当該期に固有の皇帝権力のあり方を導き出そうとするものである。
 本論の構成は、序論にあたる「はじめに」より以下、前漢から後漢に到る間に、郊祀制の展開に即応して時系列的に、(1)前漢高祖・文帝期、及び武帝期前半、(2)前漢武帝期後半、(3)前漢成帝期、及び王莽執政期、(4)後漢光武帝・明帝期、という四つの段階を設定し、各段階をそのまま第一から第四章としている。
 「はじめに」では、本研究の射程と概容、及び研究史的な背景と意義とを述べる。本研究は、皇帝が、中華世界の最高神格「上帝」に対して自ら行う郊祀に関する諸規定の総体である郊祀制を、考察の中心とする。それは、郊祀が漢代に行われていた国家祭祀の中でもとりわけ大規模であり、かつ郊祀制が、漢代という、前近代中国における皇帝制度の揺籃期において、皇帝支配体制と軌を一にして展開し、郊祀を主宰する「皇帝」という君主の性質が変化していく過程が、郊祀制の変遷過程となって顕在化しているからである。本研究の目的は、郊祀制を構成する諸要素を分析し、その背景をなす、祭祀に関する諸観念や思想(祭祀論)を考察し、郊祀の全体構造が表現する、皇帝権力の性質とその変容とを通覧することである。
 古代中国の郊祀制は前漢王朝より開始されるが、両漢交代期に儒家思想の導入によって大きく変容し、これ以降、皇帝の性質とその権力の正当性説明に深く関わる国家儀礼体系の頂点として、清朝に到るまで継承されていくことが、現在の通説である。そして、両漢交代期の郊祀の変容は、皇帝の個人的嗜好に基づく「私的」祭祀から、皇帝権力の正当性に関わる「公的」祭祀への変容として評価されている。しかしこのような評価は、前漢皇帝権力における郊祀の意義を矮小化し、郊祀を通じて表現される皇帝権力の展開を分断するものである。
 そのため本研究は、郊祀制の変遷の中に示される、漢代皇帝権力の変容過程を明らかにするために、郊祀がその開始以来、一貫して皇帝支配体制と関わり、「皇帝」という君主の性質を表現してきた、という見通しのもとで、前漢と後漢における郊祀制を連続的に捉え直す。その際、主たる分析対象となるのは、漢代郊祀に関する先行研究において未だ扱われたことのない、郊祀を構成する儀礼や設備といった具体的な諸要素、とりわけ郊祀の祀場構造である。新しい分析視角を用いて両漢の郊祀制の全体像を復元することは、当該期を舞台とした皇帝権力研究に新しい局面を提示する提供することとなる。
 第一章では、前漢郊祀制の黎明期、萌芽期として、高祖より武帝中期までをとりあげる。この時期には、秦の郊祀制継承と、そこからの脱却に向けた模索が続いた。前漢高祖は、自身を故の秦地の支配者として権威付けるべく、秦の伝統的上帝祭祀を継承すると同時に、そこに五徳終始説を導入して、上帝祭祀体系「雍五畤」を形成した。
 文帝は、これにさらに周の伝統祭祀の要素を加味し、漢王朝においてはじめて皇帝による郊祀を執り行い、農事成就の祈願を目的として皇帝が天下万民を代表して行う、という、後代に継承される郊祀の意義を確立した。また、文帝が漢独自の郊祀施設として創出した渭陽五帝廟は、郊祀の舞台として定着することはなかったものの、祀場に「世界」の構造を表現する、という郊祀の基底的方式を先取りした歴史的意義を有する。
 武帝が即位後まもなく行った雍五畤郊祀の定期化は、前漢郊祀体制形成の第一歩であった。そして武帝の中期に創設された「河東后土祠」は、新たな「天地一対」祭祀論と、従来の五徳終始説という異質な祭祀論の重層構造となっており、郊祀が多様な諸観念や世界観を重層化し、包摂していく契機に位置づけられる。
 以上のような前漢初期より中期に到る間の郊祀は、五徳終始説をその理論的基盤とする点で共通している。
 第二章では、河東后土祠創設翌年に創設された、前漢郊祀体制の中核となる甘泉泰畤をとりあげる。武帝期には国家的祭祀事業が盛んに行われたが、これらは従来、武帝の不老登仙を求めた狂奔として理解されてきた。しかし甘泉泰畤の祀場構造とその儀礼は、それが「神仙術」のみでは把握しきれない、従来の五徳終始説に基づく祭祀論をも飛び越えた、多元的で豊かな世界観と諸観念の重層化によって全「宇宙」を包括的に表現するよう構成されていたこと、そしてそこで郊祀を行う目的が、全「宇宙」の中心にあってそれを統轄する「太一」神に、天下太平を願うことにあったことを示す。
 武帝が甘泉泰畤郊祀に求めたのは、神々に働きかけ、宇宙の循環運動と一体化して社会に安定をもたらし、自身も不老長生となる「皇帝」像の完成であった。この郊祀の儀礼には巫祝や女性が多数参加し、豪奢な饗宴を演出して、皇帝の神々への働きかけを媒介していた。
 ここまで取り上げてきた中の三つの祀場、すなわち秦の伝統を汲む雍五畤、武帝の中期に創設された河東后土祠と甘泉泰畤とを、皇帝が定期的にめぐるのが、前漢郊祀体制である。これは宣帝期以降定着し、「旧儀」として遵守されて伝統化していく。
 第三章では、前漢末期に儒家官僚が、儒家の理想に基づいて前漢郊祀体制を再編成していく前漢末郊祀改革をとりあげる。郊祀改革は、成帝期の建始改革、平帝期の元始改革の二段階で完成する。
 成帝即位直後の建始年間、儒家官僚は、現行の郊祀体制が、経書に記された周王朝の体制、「古制」と異なる、という理由により、その改革を求め、皇帝の裁可をうけて「長安南北郊制」を創出した。  
 これは、郊祀の祀場を、都から遠く離れた三ヶ所から移設し、都長安近郊に集約することと、郊祀の儀礼の、巫祝や女性が中心的な役割を果たす豪奢な饗宴という側面を排除することを、その内容としていた。そしてその目的は、儒家の最高神格「天」と皇帝との本来的な緊密性に基づき、何者の媒介も必要とせず、自身の精神的修養によって、地上で唯一、「天=上帝」と関係を持つことのできる「皇帝」像を、郊祀によって明示することであった。
 改革の開始から三十年余り後の元始年間、新しい「長安南北郊制」を確定し、建始改革よりも詳細に儒家的郊祀を理論化したのが、その時の最高権力者王莽主導により元始改革である。
 王莽は経書中の祭祀に関する断片的記述を駆使して、儒家的郊祀理論を構築したが、郊祀の祀場構造に関しては、前漢の甘泉泰畤より継承する要素が多かった。王莽が創設した長安南北郊の元始郊祀壇は、甘泉泰畤における多様な世界観の重層化による「宇宙」の表現を継承しながら、そこに配置される諸神格を儒家思想によって分類、整序し、全「宇宙」の秩序を可視化していた。そこにはまた、王朝機構を構成する官制秩序が重層化されていた。このような郊祀の祀場における「秩序」の顕在化は、建始と元始の改革において表明された、「天の序を承け」る、という郊祀の意義の具体化であるとともに、郊祀の祀場構造における新たな展開でもあった。
 第四章では、王莽の元始改革の成果を、「元始故事」として継承した後漢王朝の郊祀制をとりあげる。これは、両漢を通じた郊祀制変遷の最終局面である。
 従来、後漢の郊祀制は儒家思想における祭天の具現化であり、前漢の郊祀制とは大きく異なる、と考えられてきた。しかし、前章までに論じてきた、前漢郊祀制の祀場構造や儀礼などの実態を基礎として、改めて後漢郊祀制のそれを検証した場合、前漢と後漢との連続性と、異質性とが浮上する。
 後漢郊祀の祀場、洛陽南北郊は、やはり多様な世界観による「宇宙」の構造表現、という前漢武帝期以来の郊祀の原理を受け継ぎながら、その中に千五百余りの神格を分類、序列化し、全「宇宙」の秩序を明示した。これは経書中の、本来は儒家とは異質なあらゆる神格まで全て序列化して祭祀することを意味する、「咸秩無文」という理念の具体化である。
 祀場における「時間」の循環の明確的表現は、後漢郊祀制の特徴であるが、それは後漢の他の国家祭祀、明堂や五郊迎気の意義と通じ、皇帝の祭祀執行に、「時間」の統御という目的を与えた。
 明帝期に実施された祭服制度は、王莽がはじめた郊祀の場における官制秩序の可視化を、変形しつつ継承したものである。郊祀の儀礼は皇帝と官僚層によって執行され、儒家思想に基づく秩序の頂点、中心としての「皇帝」像を明示するが、同時に、儒家思想とは異質な、多元的で多様な要素を包摂して成り立つ「皇帝」像をも発信している。

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