岡田 和一郎 「中国北朝国家論」

序章では、史料上における「北朝」の用語を確認したうえで、北朝国家に関する先行研究をまとめた。それらをふまえて、貴族や「民族」的視点を越える枠組みとして国家的枠組みによって北朝史を通覧すること、具体的には前期北朝国家に創立された「代人共同体」の展開とそれにともなう編戸支配の変化を軸に北朝国家の性格を論じることを述べた。
 第一章では、前期北魏に特有の西郊祭天儀礼の空間構造を基に、前期北魏国家の支配構造を考察した。まず、西郊祭天儀礼が鮮卑族の風習を色濃く残した儀礼であり、皇帝が親祭することで、前期北魏国家にとって南郊祭祀より重要な儀礼だったことを表わしている。その空間構造は、垣を境にして、内に皇帝・皇后・女巫・十族の子弟・内朝臣、外に外朝臣・諸部大人・賓国が参列している。垣内参列者の中で、十族とは代国時代から孝文帝期まで拓跋氏の「親族」と認識された人々である。内朝臣とは、代国起源の「侍官」に就任した者を指し、概ねそれは代人によって占められていた。代人とは複数の種族によって構成されており、道武帝の部落解散を通じて天賜元年頃に編成された集団である。彼らは、祭天儀礼などのシンボルや使用言語を共有するという社会面においても、徴税・選挙などの政治面においてもまとまりを持つ支配共同体であった。一方、垣外の参列者については、外朝臣は代人・宗室・編戸の上層部によって構成された中央政府の官僚を指す。諸部大人とは戸籍に登録されていない諸族の首領を指し、戦時には軍事動員される存在である。最後に、賓国とは北魏に政治的に従属している国々を指す。ともに北魏の官僚である内朝官と外朝官の西郊祭天における参列位置を見ると、北魏の支配層における、「代人共同体」とそれ以外の者との二層構造が確認できる。前期北魏国家の支配層の内部には、編戸支配のために形成された北魏朝中央政府と、編戸・諸部民に掣肘を加える一方で、中央政府のヘゲモニーをも握った「代人共同体」の二層構造が存在したのである。
 第二章では、「代人共同体」と編戸の関係に注目しながら、前期北魏国家の支配構造の転換を考察した。まず前期北魏国家の君主が使用した可汗号は「最高君主」を意味するだけではなく、唐代北狄楽の記載を参考にすると、「代人共同体」に対応する君主号であったことがわかる。また、「代人共同体」には、可汗―民を基本的要素としながらも、「良家」や経済的格差が見られるなど、支配共同体内部の代人集団間は必ずしもフラットな関係ではなかった。このような支配共同体を中核に構成された前期北魏国家の支配構造は、太武帝の華北統一以降に変化の兆しを見せ始める。まず、領域拡大を契機に編戸の軍事動員がなされるようになり、一方で官界ではそれまで代人が概ね占めていた内朝官に州郡人が流入し、皇帝からの恩賞的意味合いを有する賜名も、代人から内朝官、そして編戸へとその対象を拡大していく。これらはすべてこの時期に、編戸(州郡人)が北魏の君主権力の基盤に据えられたことを意味する。それを受けて、孝文帝親政期には、それまでの「代人共同体」を解体する政策がとられるようになる。それは洛陽遷都に伴う代人の編戸化であり、「代人共同体」の統合原理を否定した姓族詳定政策である。これらの政策により、代人はその支配共同体たる地位を失い、編戸として再秩序化されることになる。以上の政策を経て北魏君主は皇帝として、旧代人・州郡人を一元的に編戸として支配し、官界においても官品の導入などにより官人を一元的に支配する存在となった。さらに、孝文帝期は礼制改革や楽制改革にも着手しており、それら古典的国制を意識したイデオロギー装置が後期北魏国家で機能した。以上のような性格を有する後期北魏国家こそ、古典的国制の再建志向を有する専制国家と称されるにふさわしい国家であった。
 第三章では、前期・後期北魏国家から何を継承したのかという観点から、北斉国家について考察した。東魏・北斉期の政治的対立は「民族」的対立ではなく、皇帝権力の正統性と、その背景に存する後期北魏国家(孝文体制)と前期北魏国家(代体制)のどちらの国制を自らの国家体制として採用するかという対立であった。但し、東魏・北斉期に表われた代体制はイデオロギッシュな産物であり、そのため両体制の対立は、きわめて限られた局面でしか起こり得なかった。両体制の相克は「六鎮の乱」以降に爾朱栄によって擁立された孝荘帝期から看取され、孝文帝の血統を継ぐ者を皇帝に即位させるか否か、あるいは国史編纂をめぐる歴史観などを論点に争われた。爾朱栄はじめ爾朱氏が擁立した皇帝は非孝文系の血統を有する者であったが、それは爾朱栄集団が後期北魏国家の支配層から排除された者たちによって構成されていたからである。但し、爾朱栄集団は領民酋長層を基礎に、前期北魏国家の支配層である代人をも含んでいたことから、当時代体制を担った集団が爾朱栄によって新たに編成し直された集団であったことがわかる。非孝文系の擁立は、爾朱栄の下で頭角を現した高歓が実権を握るに至り、孝武帝・孝静帝と孝文系の血統を有した人物が擁立されることになる。それを継承した北斉国家は孝文体制を国家体制として採用したが、天保十年や孝昭帝政権下では可敦号の採用など代体制の顕現した時期が見られた。その背景には後期北魏国家の支配層から排除された勲貴らの影響が見られたが、代体制の採用は部分的・短期的にとどまったことから、北斉の国家体制が孝文体制と副次的な代体制に規定されていたことが確認できる。東魏・北斉国家における両体制を体現したのが、両都制である。北魏末の洛陽―晋陽・洛陽―?を経て、両都制は東魏・北斉期に孝文体制を支えた旧北魏中央軍が駐屯する?と、代体制を標榜する勲貴らが駐在する晋陽という形に帰結する。この両都制が北斉滅亡まで機能し続けたことは、北斉が最後まで両体制を統合できぬままに滅亡していったことを表わしている。
 第四章では、西魏・北周に出された諸政策やその領域編成から、その国家的特質を検討した。北周では「魏の後を紹ぐ」者が設けられたことが他の王朝に比して特徴的であるが、「魏の後を紹ぐ」者とされた人物には際立った功績もなく、一人が孝文系もう一人が道武系であることから孝文帝を基準とした血統や功績によって選択されたわけではないと思われる。「魏の後を紹ぐ」者が設けられた理由は、以下でみるように北魏を継承する国家であることを主張するために、象徴として存在させる必要があったことにある。宇文氏の始祖説話を見ると、その出自が匈奴系とされるのにもかかわらず、鮮卑との関係性が強調されているのに気づく。また、王朝の創業者が配祀される南郊祭祀に北魏の「舅生の国」となった宇文「莫那」を配祀することで、北周が鮮卑系であるだけでなく、鮮卑拓跋部を継承する王朝であることを主張している。西魏期に実施され、北周にも継承された国姓政策は旧代人を基礎として、宇文泰が新たに第二次「代人共同体」を創出した政策であると位置づけることができる。また、北周明帝二年の本貫の「京兆化」政策は第二次「代人共同体」を対象としており、西魏の建国当初「國家之兵馬」と一線を画した在地軍事集団の将の本貫を京兆郡に移すことで国家の管轄下におき、「代人共同体」を北周領域の中心に据える領域的に「関中本位政策」と称すべき政策であった。ここで構想された領域編成は、北周領域全体の中にも反映されている。保定四年の対北斉戦で動員された軍とそれが徴発・駐屯した地域の関係を検討すると、北周の領域は第二次「代人共同体」たる二十四軍が駐屯する関中地域と、編戸から徴兵される丁兵を主たる構成員とする地方軍が駐屯した他地域から構成されていたことがわかる。また、丁兵に注目すると、関中地域のそれは遠征軍に徴発されなかった点で、他地域の丁兵とは異なる存在と言える。上記のような領域構造は、関中地域を重視するまさに「関中本位政策」を体現するものであった。以上のような始祖説話や国姓政策・領域構造を有する西魏・北周国家とは、前期北魏国家をモデルとして第二次「代人共同体」を構築し中核に据えた国家体制を採用した点において、第三章で考察した北斉国家とは対照的な国家であったと言える。
 終章では四章にわたり考察した結果をふまえて、北朝国家の構造を時系列に並べることで以下のような結論を得た。まず北朝国家の展開は前期北魏国家の支配共同体を中核とする国家体制、ならびに後期北魏国家の古典的国制への回帰傾向を有する専制国家という二つの国家体制の相克として捉えられること、次に北魏の道武帝によって創られた「代人共同体」に起因する「代」ないしは「鮮卑」イデオロギーに規定された国家群であったこと、最後に「代」「鮮卑」イデオロギーの性格が色濃い軍隊が中核軍として首都近傍に配置されたことの三点が北朝国家の特徴としてあげられる。また、一点目の特徴に関連して、楊堅が樹立した隋国家とは、二つの国家体制のどちらかに単純に回帰するのではなく、主力軍の二十四軍を保持する形で古典的国制・専制国家を志向、すなわち両者を止揚する形で構築されたことがわかる。最後に、北朝国家の展開は紆余曲折を経ながらも、様々な支配形態によって管理されていた人々を戸籍に附し、編戸として国家の支配下に組み込んでいった歴史として見ることができる。「兵士軍人」を州県に帰属させるために出された開皇十年の詔は、北朝国家の編戸一元的支配の帰結的政策である。以上のような展開を見た北朝国家とは、中国史上における第二次専制国家の形成期と位置づけられよう。

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