竹貫 友佳子「中世後期の社会と禅宗−戦国期における山隣派の展開を中心にして−」

 本論文は、中世後期における「山隣派」禅宗教団の歴史的展開を、外護者(檀越)との関係、および彼らをとりまく当時の社会的状況、あるいは禅寺の入寺システムなどに注目して解明したものである。
 中世社会を構成する寺社勢力の分析は近年急速に進んできた分野であるが、戦国期禅宗教団実態解明の作業は、ようやく緒についたばかりであると言える。なかでも戦国期に急激に地方展開を果たした臨済宗禅宗寺院、大徳寺および妙心寺両教団の究明は、史料的制約とも相まって、ほとんど未解決の課題であると言えよう。
 ところで、従来、大徳寺・妙心寺両教団の地方展開については、「林下」(中央を中心に活動した「叢林」に対し、地方を中心に活動した禅宗教団の意味)の範疇で論ぜられることが一般的であった。しかしながら、本論文では、両教団を、新たに「山隣」(中央との関係を維持しながら地方展開を果たした禅宗教団)と概念化することにより、両教団の地方展開を再検討している点が大きな特色である。以下、本論文の要旨の紹介を行う。
 まず、序章「研究史と課題」においてこれまでの研究史の整理がなされた後、上述のような課題の設定と方法論が提示され、続いて本論が展開される。
第一章「日明交流と天界寺―日本国僧宗嶽等についての一考察―」では、両教団の母胎となった大応派禅僧の活動の一端を、初期日明交流史の視点から考察している。具体的には、足利義満が派遣した最初の遣明使(一三七四年)を中心に、一三七〇年代における日明の禅僧の交流までを、彼らの法系・門派などに注視しながら詳細に検討し、胡惟庸の乱以前の日明間禅僧の交流には、いまだ自由で活発な交流が存在していたことを論証している。
第二章「戦国期、禅寺の入寺制度に関する一考察―特に山隣派を中心に―」では、戦国期における山隣派(大徳寺・妙心寺両教団)の入寺・住持制度について検討している。
 山隣派の入寺方式については、従来、「入院」、「居成(居公文)」という入寺方式が知られていた。しかしながら筆者は、十六世紀後半以降にはこれらに加えてさらに「立成」(一日住持)という入寺方式が見られるようになることを指摘し、これを山隣派教団の特色が具現化された独自の入寺システムであると意義づけている。また山隣派教団の場合、入寺官銭は幕府ではなく入寺する寺院へ納入され、さらに入寺勅許を発給した朝廷に対しては、「御礼」が納入されていたことも確認している。
 とくに大徳寺の場合、官銭額は、「入院」の場合五〇貫文、「居成」の場合一五〇貫文の規定があったが、朝廷へ納入される「御礼」の額には違いがないことなども明らかにしている。
第三章「山隣派の地方展開―大徳寺真珠庵派と朝倉氏―」では、大徳寺四派の一つである真珠庵派に注目し、外護者である越前朝倉氏との関係について考察している。
 真珠庵派は一休宗純を派祖とする門派であり、大徳寺山内の真珠庵と山城薪の酬恩庵を門派拠点にしていたが、有力檀越として越前朝倉氏の保護も得ていた。
 朝倉氏は真珠庵を菩提寺とする一方、在地の菩提寺深岳寺へも同庵から住持を招請し、さらに同庵への祠堂銭納入なども行っていた。また越前・京都間の寺納物運搬などには真珠庵派周辺の商人が携わっていたことも推測している。
 以上の考察を踏まえ、朝倉氏の真珠庵派外護の理由としては、信仰の側面だけではなく、真珠庵派のもつ経済的・文化的側面への期待というものも大きかったのではないか、と結論づけている。
第四章「戦国期の大徳寺運営と地方展開―大徳寺龍泉派に注目して―」では、大徳寺四派の一つ龍泉派の寺内活動及び地方展開について考察している。
 龍泉派は相模国へ展開し、後北条氏を外護者として活動した門派である。大徳寺山内には派祖陽峰宗韶の塔所龍泉軒があるが、他の三派のように門派拠点寺院の様相はなく、実態としては相模国早雲寺が拠点寺院になつていたことを指摘している。
 その上で、さらに早雲寺僧のいわゆる「居成官銭未納事件」について検討し、結果、後北条氏の同派保護の理由としては、大徳寺住持がもつ紫衣称号といった「権威」への期待よりも同派の有する経済力への期待の方に、より比重があったのではないかと推測している。
以上の本論の後、「終章」においてはこれまでの論を総括する。すなわち、「山隣派」禅宗教団は、中央では室町幕府・朝廷などと密接に関わり、この関係を維持したまま地方においても戦国大名や商人等の保護を得るなど、中央・地方の両地域において展開した教団であった、と結論づけている。

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