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『洛陽名所集』とは

万治元年(1658)八月に刊行された京都の名所案内記です。七月に出版された中川喜雲の『京童』とともに、京都名所記の誕生を示す記念碑的な作品です。作者の山本泰順(やまもとたいじゅん)は京都の漢学者で、父の友我(ゆうが)は有名な禁裏絵師でした。

『洛陽名所集』の諸本について

『洛陽名所集』(十二巻十二冊)の諸本については、現在のところ六種類の版本に大別できるようです。

1. 板司仁兵衛尉幸之版

題簽「洛陽名所集」(「都物語」と書き題簽するものもあり)

序「万治元年戊戌八月日/山本泰順撰」

刊記「万治元歳戊戌仲秋吉辰/板司仁兵衛尉幸之刊」

2. 吉田庄左衛門版

万治二年刊(所在不明『新訂増補古版地誌解題』による)

3. 村次郎右衛門版

題簽「山城名所記」

序「万治元年戊戌八月日」(日付を残し、署名「山本泰順撰」を削除)

刊記「寛文四年甲辰年初春/上村次郎右衛門開板」

4. 中野小左衛門版

題簽「都物語」

序「万治元年戊戌八月日/山本泰順撰」

刊記「寛文十庚戌年九月板成/書林 洛陽中野小左衛門」

5. 無刊記版

題簽「山城名所記」

序(日付・署名ともに削除したものと両方完備するものとがある)

6. 永楽屋七良兵衛版

題簽「山城名所記」

序(日付・署名ともに削除したものと日付だけを残したものとがある)

刊記「華雒書林/永楽屋/七良兵衛板行」

これらの諸本はさらに(甲)1・4の系列と(乙)3・5・6の系列に分けることができるようです。

寛文九年十月に作者山本泰順は刑死しますので(「山本泰順について」参照)、1にあった序の署名は3が刊行された寛文四年当初にはまだ残されていたものの、刑死後の後摺に際して署名だけが削除されたことが予想されています。ただし、署名の記される3は確認されておらず、3において削除された署名が4では備わっていることにも疑問が残ります。

京都府立総合資料館蔵本(貴T35)は3の上村次郎右衛門版に該当します。

参考文献

『新修京都叢書 第十一巻』(「洛陽名所集」 臨川書店、平6)解題(野間光辰氏執筆)

『洛陽名所集』(近世文学資料類従 古板地誌編3 勉誠社、昭51)解題(安田富貴子氏執筆)

山本泰順について

山本泰順は寛永十三年(1636)生まれ。京の岩倉を根城とした山本若狭守利尚(としなお)を祖先に持ち、祖父の富尚(とみなお)の代に浪人となりましたが、父の友我は狩野派の絵師として江戸で活動した後、三十五歳の時に上京しました。京では禁裏絵師として活躍し、後水尾院を中心とする宮廷文化人と広く交遊しました。

そうした環境の中で育った泰順は冷泉為景(れいぜいためかげ)に和歌や漢学を学び、為景没後には宇都宮遯庵(うつのみやとんあん)にも師事して漢学を修めました。明暦二年(1656)二十歳の時に『古今軍林一徳鈔』、翌年には『節序詩集』、そして万治元年(1658)八月に『洛陽名所集』を刊行しました。現在確認できる最後の刊本は寛文八年(1668)に成立した『四家絶句』となります。

順調に見えた泰順の人生でしたが、寛文九年、三十四歳の時、突然の悲劇が襲います。父友我は富裕家からの嫁入りを望み、その婚礼資金としての金子三、四百両の工面に迫られ、偽装した長崎糸荷を質入れしたことが発覚してしまいます。同年十月十四日、友我・泰順父子は粟田口で磔刑に処せられました。

参考文献

前項既出二著

市古夏生氏「山本泰順と中川喜雲」「冷泉為景とその周辺」(『近世初期文学と出版文化』若草書房、平10)