修了生+卒業生>三木沙織



卒業研究(作品) フラグメンタルな光の集まり/森の写真美術館

設計趣旨
 「フラグメンタルな光」 光とは、まず何よりもわれわれの視覚にとって必要不可欠なものであり、さらに写真というメディアにとっては、それが成立するためのもっとも根源的な条件でもある。光がなければ写真は写らないし、影がなければ白く写るだけで、人は画像を認識できない。「外界の片隅に、フラグメンタルに存在する光にこそ、キザに言えば、僕は永遠の時間を垣間見ることができる。つまり、歴史を直観するといっていい。 光の持つ歴史の記憶と、僕に在る私的な記憶とが、白日の路上で一瞬擦過する。光は、記憶を介在させて歴史にいたり、歴史は、光を介在として記憶を呼び醒ます。光は、このようにして、現在、ここに在る。」と写真家森山大道が述べているように、人が生きてきた時間、そしてこれから生きていく時間はフラグメンタルな光の集まりであると言える。また、写真は時間と空間を同時に切り取り、そのフラグメンタルな時空は記録として、後の時代に存在し続ける。写真において、光の投影の始まりと終わりを決めるのは人であるが、その写真にはありのままの事物が写るため、写真は「自然の要素」によって生み出されるものであると言えるのではないだろうか。杉本博司の作品である「劇場」シリーズは、劇場内にカメラを設置し、一本の映画を最初から最後まで長時間露光で撮影することで、時間の流れを切り取り、空間内の光を一枚の写真におさめたものであり、時間の流れと切り取られた光の圧縮を感じることができる。以上のことから、写真はまさに自然の要素によって生み出される光の集まりであると考えられる。自然の要素によって生み出される建築空間は、時間の経過とともに移り変わっていくものである。その例をいくつか提示する。まず、建物の内部にいながら、自然を感じることのできる場所として美術家ジェームズ・タレルのBlue PlanetSkyが挙げられる。天井に開けられた大きな四角の開口によって切り取られた空を見る作品で、人(主体)と建築空間(媒体)と空(対象)の関係が抽象化し、距離やスケールが失われ、三者が一体化する感覚を与える。天井の開口にはガラスがないため、風や雨が入りこんでくる場所になっており、壁に沿って設置された石のベンチの質感を感じながら、光と風、水を感じ、空の移り変わりと同調しているかのようにゆったりとした時間を過ごすことができる。写真家、杉本博司が構想・設計した護王神社は、階段にガラス(媒体)を用いることによって、地上と地下を光の要素で繋いでいる。カメラ・オブスキュラにおけるフィルム(像)とレンズ(媒体)と被写体(実体)の関係を建築空間で表現したものと考えられる。また、安藤忠雄の設計による地中美術館は、内部に入りこんでくる光や風によって、地中にいながらも、それを感じさせない開放的な空間である。空間の操作により、自然光の様々な表情を感じさせ、われわれに光と影を強く印象づけるものである。これらの事例から、自然の要素によって生みだされる空間が、日常において特に意識することの無かった自然の力を体感させ、時間の流れを意識させるものと考えた。以上のことを踏まえ、本研究では、写真と密接に関係している光を主題とし、建築空間そのものが写真における光の存在を想起させ、時間の経過によって表情を変える、写真そのものを表現する空間を構想し、写真美術館の計画案として考えをまとめ提示することを目的とする。