勇猛な賀茂競馬
賀茂競馬の魅力の一つは、「賀茂悪馬流(かもあくばりゅう)」といわれる上賀茂神社独特の馬術・調教法が現代でも色濃く残されていることです。毎年5月5日は、荒馬を勇猛果敢に乗りこなす乗尻(のりじり)たちの姿に大変興奮しますが、昔の馬は相当暴れ馬だったようです。上賀茂社の日記では、例えば元禄7年(1694)年の競馬では20人の乗尻の内7人が落馬し、元禄14年の記録では4人が落馬したことが記述されています。寛政4年(1792)に上方を旅し賀茂競馬を観覧した津村淙庵も「馬より落たる者三人、馬横きれてはしりたる者一人」と記述しており、その激しさがよく伝わってきます。
さらに津村淙庵は「鳥居の外に人のゝしりさはく事おひたゝし。行ってみれは、くらへ馬の社司の乗来たる馬をおとろかさんとてかくするなりけり(中略)馬のおとろきてはねあかるをしゐて引すへつゝのり入さま、いとやましけなり。されとかく馬をおとろかす事をけふの神事のわさとする事にならはしきたれは、あへて制する人なし」と、観客たちが馬を興奮させて盛り上げる様子を記述しています。5月の京都を代表する年中行事として、その賑わいぶりが目に浮かんできます。
江戸時代では京都所司代も、この神事に深く関わります。一番手に走る美作国倭文荘の馬は、荘園制がなくなった江戸時代では所司代から出されることになっていました。また当日は桟敷を敷いて所司代も競馬会を観覧することになっていました。元禄13年(1700)の競馬会前日の5月4日に、夜半からの大雨が予想されたため、所司代の家来から「天気が悪くても遅く開始することはないのか」「大雨の時はどうするのか、今晩から雨が降った場合はどうするのか、委しく返答してほしい」という問い合わせがありました。この問い合わせに対して上賀茂社は、「明朝から神事として乗尻の作法などがあり、馬が走る時刻は未刻になっています、このため大雨であっても時間を遅らせることはありません」と返答しています。江戸幕府の朝廷・上方支配の長官である所司代も、厳粛な神事の前ではその仕来りに従わざるを得なかったようです。(文責:藤本仁文)
【参考文献】
『上賀茂のもり・やしろ・まつり』(思文閣出版、2006)
「元禄七甲戌年日次記」「元禄十三庚辰歳日次記」「元禄十四辛巳歳日次記」(賀茂別雷神社所蔵)。
津村淙庵「思出草」(『史料京都見聞記』第2巻(法蔵館、1991))363―365頁。
【写真】「賀茂競馬」(写真提供:上賀茂社)
神々しき馬場
競馬が行われるのは、一の鳥居を入って左側に広がる馬場と呼ばれる空間です。二の鳥居につながる参道を歩きながら眺めるとその広さを実感できます。「都名所図会」【写真1】は向かって右下に一の鳥居が描かれ、左側全体に競馬の様子が描かれています。宝暦7年(1757)に訪れた本居宣長は、「そこの御門を出て、御手洗川の辺をおくふかく入る、大道あり、人おほくゆく、右は川、左はかの競馬のやらひゆひまはせし馬場也、此わたり、いはんかたなく神々しき所也」と、馬場が持つその独特の神々しい雰囲気について記述しています。
明和4年(1767)に訪れた旅人は、「表門入て左の方常々神主等稽古の馬場あり、能芝生也けるも借馬なと出、稽古の躰有之、右の方競馬の馬場見事の芝原也」と記述しており、芝生の美しい緑は当時の人びとにも深い印象を与えていたようです。現在でも眩しい新緑に囲まれて行われる光景がよく知られています【写真2】。
なお、社人たちが毎年4月28日に籤を引いてそれぞれ警固をする場所を決め、また埒(らち)と呼ばれる柵を張り巡らし【写真3】、いよいよ競馬会の当日を迎えます。(文責:藤本仁文)
【参考文献】
本居宣長「在京日記」(『史料京都見聞記』第2巻(法蔵館、1991))39頁。
筆者未詳「十国巡覧記」(『史料京都見聞記』第3巻(法蔵館、1991))126頁。
【写真】
【写真1】『都名所図会』(京都府立大学文学部歴史学科蔵)
300年前の馬具
【写真1】【写真2】は、桂昌院奉納と伝えられる競馬の馬具・鞍です。上賀茂社所蔵の日記や丹後国宮津藩主本庄氏の記録から、元禄11年(1698)3月27日に、徳川5代将軍綱吉の生母・桂昌院とその弟・本庄宗資が競馬の馬具・装束の一式を奉納していることが確認できます。本庄氏家譜に「右鞍之蒔絵蓬菖蒲香包に致候絵様なり」と記述されており、模様が一致することから、この鞍が約300年前に上賀茂社に奉納されたものであることは間違いないと言えるでしょう。
驚きなのは、この鞍が現在でも毎年使われていることです。実際に初めて使用する競馬会に先立つ元禄11年4月27日に、破損しないように大事に着用すること等の取り決めを社中で行っており、300年以上経た今に至るまで大事に使われ続けているのだと思われます。競馬の中の一つ一つに、隠された面白い歴史があるのも魅力の一つです。
(文責:藤本仁文)
【参考文献】
藤本仁文「元禄期の寺社行政と本庄宗資―賀茂葵祭再興を中心に―」
(『京都府立大学文化遺産叢書』5号、2012年3月、京都府立大学文学部歴史学科、9-21頁)
「本庄家譜」第一巻乃至第五巻、宗資・資俊・資訓・資昌(舞鶴糸井文庫所蔵(資料番号三六―二九))
【写真1】「桂昌院奉納の馬具」(賀茂別雷神社所蔵)
【写真2】「桂昌院奉納の鞍」(賀茂別雷神社所蔵)
上賀茂神社と葵
上賀茂神社はその神紋が二葉葵であること、下鴨神社との祭事である賀茂祭が一般に葵祭と呼ばれることなどにみられるように、葵と関係の深い神社です。ここでは上賀茂神社の葵にまつわり、江戸時代を通して行われた「葵献上」という儀礼について紹介します。
「葵献上」とは、宇野日出生氏が明らかにしているように、葵使と呼ばれる上賀茂神社の代表2名が唐櫃に納めた葵を江戸まで運び、毎年4月1日に徳川将軍家などに献上した儀礼ですi。
その際、将軍への御目見えも行われました。同氏によれば、慶長十五年(1610)4月11日に駿府在城の徳川家康に、巻数、太刀が献上されたのがその始まりであり、以降、慶応三年(1867)の大政奉還に至るまで、江戸時代を通じて毎年行われたとみられていますii。
当初、葵は徳川家康と対立関係にあった豊臣秀頼にも献上されたことがありましたが、大坂の陣を経て江戸幕府の支配が安定すると、葵使による「葵献上」は一般寺社が行う年始御礼に相当する儀礼として位置づけられるようになりました。その特色は将軍に献上する品に徳川家の家紋でもある葵が含まれ、それが年始ではなく4月1日に献上されたことです。それには冬に葉を落とし、旧暦の初夏にかけて葉が成長して、生命力にあふれた姿になるという葵の生態が大きく関係していたと考えられます。4月1日に葵を献上するための手続きや工程も毎年通例となっており、江戸に葵を運ぶ使者に「葵使」という名前がついたのには、葵が上賀茂神社と徳川家に共通する紋であるという特徴に加え、そのような理由もあったと思われます。
ところで、応仁の乱以降、賀茂祭行列は中絶状態に陥っていました(祭自体は上下賀茂社の「私祭」として存続しましたiii)が、江戸幕府五代将軍徳川綱吉による援助を受け、元禄七年(1694)に再び行われるようになります。それをうけ、元禄七年からは葵使による「葵献上」とは別に、祭の終了後にも京都所司代を通じて江戸幕府の将軍に賀茂祭の葵が献上されるようになりました。また、天皇家や公家には賀茂祭行列の中絶期間中においても祭に先立って葵などが献上されており、それは行列の再興後にも存続されています。
将軍家に賀茂祭の葵を献上するにあたっては、受け取る側に対して清めのことなどの注意書きが作成されました。このような注意書きは、これまでの葵使による「葵献上」の際には見られませんでしたが、以降、将軍家の服喪中に葵を献上する際などに引用されることもありました。
江戸時代、上賀茂神社は以上のような「葵献上」を行っていました。現段階では不明な点が多いため、今後は賀茂祭の具体的な再興過程と合わせて研究を進めていきたいと考えています。
(文責:山﨑祐紀子)
i 宇野日出生「賀茂別雷神社『葵使』関係文書の翻刻と解説(上)」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』十二・十三合併号、二〇〇八年)、同「賀茂別雷神社『葵使』関係文書の翻刻と解説(下)」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』十四号、二〇〇九年)
ii 前掲、宇野氏論文
iii 福田正「戦国期初期前後の賀茂祭の施行状況について」
(http://www.kamoagatanushi.or.jp/Mitarashi/6/4.pdf)
出典:本稿は2014年1月、京都府立大学に提出した卒業論文の成果の一部です。