『京童』(六巻六冊)の諸本については、現在のところ三版元四種類の版本が確認されています。
1. 八文字屋五兵衛版
刊記「明暦戊戌年/七月吉日/さはら木町通東のとう院東へ入町/八文字屋五兵衛新刊」
2. 山森六兵衛版
刊記「明暦戊戌年/七月吉日/さはら木町通烏丸東へ入町/山森六兵衛刊行」
山森版は、八文字屋版の版木をそのまま流用したり、新たに覆刻した箇所を混在させるなどして
仕立てたものですが、(イ)覆刻の少ない本と(ロ)覆刻の多い本の二種類に分けることができます。
(イ)の方が(ロ)よりも先に出版されました。
3. 平野屋佐兵衛版
刊記「明暦戊戌年/七月吉日/平野屋佐兵衛開板」
山森版(ロ)を流用したものです。
『京童』の刊年はいずれも「明暦戊戌(四)年七月吉日」ですが、これまでは山森版が初版と
考えられてきました。しかし、詳細な書誌的調査により、上記1→2(イ)→2(ロ)→3の順番で
刊行されたことが明らかとなりました。
八文字屋版の序文には作者の署名がありませんが、山森版・平野屋版には「中川喜雲撰」と
記されています。
京都府立総合資料館蔵本(貴重書二八五)は山森版(ロ)に該当します。
参考文献
『京童』(近世文学資料類従 古板地誌編1 勉誠社、昭51)解題(市古夏生氏執筆)
中川喜雲は丹波国桑田郡馬路(京都府亀岡市馬路町)の出身で、祖先は嵐山城主香西又六であるとされます。生没年は未詳ながら、延宝初年(1673~)頃に没したと推測されています。
喜雲は俳人・仮名草子作者として有名ですが、仕官を志し、幼い頃に上京して医学の修業に励みました。京都では松永貞徳を中心とする貞門俳諧に親しみ、『崑山集(こんざんしゅう)』(慶安四〈1651〉)に初入集以来、多くの俳書に出句しています。
明暦四年(1658)に初めての作品『京童(きょうわらべ)』を刊行しますが、寛文七年(1667)にはその続編となる『京童跡追(あとおい)』を出版します。その間にも噺本『私可多咄(しかたばなし)』(万治二〈1659〉)など五作品を著しています。
喜雲の動向は寛文十一年(1671)以降不明となりますが、仕官を諦め、医者・俳諧指導者として地方回り(田舎わたらい)の生活をしていたことが推測されています。
参考文献
松田修 氏「中川喜雲・ある名所記作家の場合」(『日本近世文学の成立』 法政大学出版局、昭47)
市古夏生 氏「中川喜雲」「山本泰順と中川喜雲」(『近世初期文学と出版文化』 若草書房、平10)