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上賀茂の歴史散歩

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1:上賀茂の歴史散歩

 賀茂別雷神社(上賀茂神社)の門前に展開する社家町は、歴史的景観が今に残っており、1988年には「上賀茂伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている(写真1)。一般公開している家もあり、社家の庭や屋敷の一部を見学することもできる。庭と屋敷の関係や、明神川の水をうまく屋敷内に引き入れて庭園に用いる工夫など、見どころは多い。

 上賀茂の道路パターンは江戸時代からほぼ変わらないことが、古地図からうかがうことができる(図1)。掲載しているのは京都府立総合資料館所蔵の「愛宕郡上賀茂村絵図」の一部だが、左上にある上賀茂神社の門前の白い部分が集落地の街路は、現在も基本的に踏襲されている。

 また、古地図を見れば、上賀茂が上賀茂社と社家町からだけでなるのではなく、田畑を伴う農村であったことも明確となる。黄色に着色された部分が田畑地で、現在は住宅地化が進んでいるが、田畑としての利用も一部、残っている。

 農村的性格を今に伝えるひとつが、漬物として有名な「すぐき」だろう。集落内に「すぐき」の幟や看板を目にすることができるほか(写真2)、上賀茂や周辺の西賀茂、岩倉などではすぐき菜の畑を目にすることができる。

 京都の近郊にあって、上賀茂村は生鮮品を都市に提供する役割にあった。京野菜として知られるすぐき菜にしても、聖護院だいこんや九条ねぎにしても、いずれも京都近郊が産地である。やや大胆に言えば、これら京野菜の存在は、「郊外」抜きに京都の歴史を語れないことを示唆するのだろう。

2:「上賀茂の法師」―『京童』挿絵の絵解きに寄せて―

 上賀茂神社の祭祀・祭礼行事のなかで、一般によく知られているのは葵祭と競馬だろう。そのうち競馬については、京都の名所案内記として最初に刊行された『京童』の上賀茂についての挿絵にも、その様子が描かれている(図2)。

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 この挿絵、「競馬」のシーンにばかり目が行くが、ふと見ると、うしろの木に僧服姿の人間が登っている。今の私たち(の多く)には、何とも奇妙な絵にみえるが、ただ、この描写こそ、この競馬が(他の場所で開催されているものではなく)賀茂のそれであることを明示するイコンとなっているのだ。

 そのイコンの源泉は14世紀前半にまとめられた『徒然草』第41段にある。そこでは、5月5日の賀茂の競馬の際、楝(おうち)の木に法師がよじ登って競馬を見物している様子が描かれている。

 中川喜雲は『京童』の序に、『京童』の執筆動機に『徒然草』の内容をふまえて「石清水の法師」の逸話に触れており、また松永貞徳による『徒然草』の注釈書『なぐさみ草』を読んでいたことも知られている。喜雲が『徒然草』の知識を有していたことは間違いない。ちなみに『なぐさみ草』のなかの第41段の挿絵でも、木の上で競馬を観戦する法師が描かれており、挿絵についても影響を受けている可能性がある(ただし、『京童』とは木と法師の関係が逆になっている)。

 このような「過去」の出来事や物語、もしくは古歌に詠まれた世界を、「現在」の場所認識に持ち込むというのは、日本では古くからある。「名所(ナドコロ)」としての歌枕などは、その典型である。このような過去に由来する名所を〈過去名所〉と呼ぶとしよう。

 一方、たとえば東京スカイツリーやあべのハルカスが名所として語られるように、繁華であるといった「現在」の状況をもとに「名所」が成立することもある。これは〈現在名所〉とでもいえるだろう。

 江戸時代前期の京都や大坂には、〈過去名所〉が圧倒的に多かった(上杉2004)。なかには、「今は場所が分からなくなっているけど、歌に詠まれた地名だから名所だ」というような、位置が分からない名所まであった。つまり、〈過去名所〉とはイメージの世界であり、多数の者のイメージの重なる部分で形成されるのが「名所」であった。現実世界とは、必ずしも一致せずともよかったのである。

 その意味で、この法師の挿絵は、上賀茂神社が〈過去名所〉として成立していることを示す端的な例となる。

 ただし、京都の名所案内記の最初の刊行として『京童』が世にでて以降、次々と名所案内記が刊行されるようになり、またその一方で旅行文化が成熟していくようになると、イメージの世界ではなく訪れる場所としての名所となっていくと言われている(水江1977、鈴木2001)。そうなると過去の由緒ではなく、現在の状況で場所が判断されていき、結果として〈現在名所〉への関心が高まるのである。江戸時代後期の名所案内記にあっても、和歌や俳句が添えられ、「ナドコロ」的な名所観も維持されるが、やはり、旅行文化が「名所」に与えた影響は大きい。

 ただし、だからといって共有されたイメージとしての「名所」という側面がなくなるわけではない。むしろ、出版文化の隆盛に伴い、不特定多数へ視覚に訴えた情報伝達が一般的になるにつれ、挿絵を含む絵画や地図などの画図資料、そして文字資料――いずれも視覚を用いる情報伝達である――によって、場所のイメージが形成・共有される回路も強固になっていく。『東海道中膝栗毛』五編に亀山人蘭衣が「歌人は居ながら名所を知り、雅人は行て名所を探る…予も寝ながら名所をしり」と記しているのは、〈過去名所〉と〈現在名所〉という名所の2つの特性、そして出版物によってそれらの情報が「寝ながら」共有できる江戸時代(後期)の様相を、的確に示している。

 地理学のなかでも江戸時代の名所については、近年研究が進んでいるが(長谷川2009、2010、2012)、京都に関する最初の出版名所案内記である『京童』の挿絵については、日本の名所観の変遷を考えるという視点から、もう少し注目されてもよいのだろう。「石清水の法師」ならぬ「上賀茂の法師」に示唆を受けつつ、今後は『京童』の他の項目の挿絵についても、みていきたい。

※『なぐさみ草』の挿絵については、藤原英城氏からご教示を得た。

上杉和央 2004.「17世紀の名所案内記にみえる大坂の名所観」地理学評論77-9、589-608.

鈴木章生 2001.『江戸の名所と都市文化』吉川弘文館.

長谷川奨悟 2009.「『雍州府志』にみる黒川道祐の古跡観」歴史地理学51-3、25-43.

長谷川奨悟 2010.「『都名所図会』にみる18世紀京都の名所空間とその表象」人文地理62-4、358-375.

長谷川奨悟 2012.「近世上方における名所と風景―秋里籬島編『都名所図会』・『摂津名所図会』を中心に―」人文地理64-1、19-40.

水江漣子 1977.『江戸市中形成史の研究』弘文堂.

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